小石川トンネル射撃場は、丸ノ内線後楽園駅の横(礫川公園地下)に存在した。
かつて後楽園の一帯は、水戸藩邸(江戸上屋敷)の敷地であった。
それが明治維新後に藩邸跡に東京砲兵工廠(陸軍造兵廠東京工廠)が建設され、トンネル射撃場は明治16年から18年ごろに完成されたと推定されている。
大正天皇が皇太子であった明治19年頃の、
「村田銃射的場御巡覧」の記述が文献に存在する。
その為、このトンネルは初の国産軍用小銃である村田銃の増産体制のために建設されたと考えられ、主に軍用小銃や機関銃の試射用(訓練・弾道実験等)の場所として使用されていた。
それが昭和17年1月に社団法人日本ライフル射撃協会の前身である大日本射撃協会が、財団法人として認可されたのを機に、陸軍省を通じて近衛師団司令部から貸与されたものである。
トンネル上部を含む一帯は戦中、高射砲陣地が築かれた。現在、近辺には弾薬庫や火薬庫などの存在を伝える礎石が残っている。
戦後は食糧不足の一助としてシイタケ栽培が行われていたが、東京都との交渉が円滑に進み、スモールボアライフル射撃場に改装され、昭和25年4月2日に射場開きが行われた。
(トンネルの全長は約280mとされる。3射座で、50m地点に土手・監的壕を築き、照明や標的を設置した。後に二階建ての管理棟が建設された)
昭和27年(1952年)のヘルシンキオリンピックが行われる際には、参加の為に第1回の全日本小銃射撃大会が開催された。
また、昭和29年には第1回全日本学生ライフル射撃選手権大会が開催された。
昭和39年(1964年)の東京オリンピックの際には、選手強化拠点として運用された。
このトンネル射撃場には、後楽園駅からの直通路が存在し、駅から直接訪れることが可能なことや文京区役所近くの駐車場を利用できたなど利便性に優れ、多くの方々に愛用されていたが、1999年3月31日(平成11年)に国・区へ返還され、終焉を迎えた。
現在は国有未利用工作物として関東財務局東京財務事務所が管理している。